No one knows

猫と私とどこかの誰か

叔父の死

迎家の図

今週の日曜日、とても真面目で穏やかで頭の良い優しい叔父が旅立った。
1月に胃がんと診断されて、最初の手術では患部を取り切れず、2度も開腹され、結局胃の3分の1を残し、それでも余り食欲が戻らず、といった流れだったと叔父家族に聞いた。

祖父は私が小6の時に肝臓がんと診断され手術したところ、腸で隠れていた脾臓に物凄い転移があったため、何もせずにお腹を閉じ、消極的安楽死(何も治療せずに死を待つこと)を迎えた。
続いたのが母で、体調を崩した時にはもうかなり進行したスキルス胃がんが発見されて、入院して3か月で旅立った。
母には告知せず、手術は胃のポリープを取ると話した記憶がある。
母の死後さほど時間が経たないうちに今度は祖母が胃がんで入院したと連絡が来て、「生きてるうちに会いたい?それとも亡くなってから?」と飛行機代を支払うから来て欲しいという連絡がゆりおばさん(図参照)から来たので、「絶対生きているうちに」と早々に札幌へ向かった。
ガリガリに痩せた祖母を見て泣きそうになっていると、そのちゃん(図参照)が「紀子(母)が死んだこと、おばあちゃんには話さないで」と頼まれた。
そのすぐあと祖母が「おかあさん元気?」と聞いてきたので焦りましたが、「とても会いたがっていたよ」と嘘をつくこともなく説明できて、祖母も安心した顔をしていたのでほっとした。

その都度親戚の集まりを取り仕切っていたのが叔父でした。
皆の食事をご馳走したり、送迎の車を走らせたり。

叔父は母方の家族で唯一の男子でした。
もう一人次男がいたのですが、大学受験を失敗した際に自死したと母から聞いています。
ですので祖母がとても頼りにしていて、おばさん(叔父の奥様)とよく揉めていて叔父は間に入って大変だったように思います。
祖母が暮らしていた札幌南区の家は私が通っていた高校が近く、叔父は定年間際にその高校に赴任しました。
祖母を想ってのことかと思いました。
叔父が一番辛そうにしていたのを見たのは、2002年、叔父の次男が突然死(心不全)でしてしまった時でした。。
お通夜の席で挨拶をした叔父は「末息子を亡くす事は目の玉をほじくり返されるように苦しい」と言い下を向いた姿がとても痛々しかった。

その後、母の納骨の時もみんな揃って食事会を開いてくれました。
同じ頃、おばあちゃんの家を解体して売る事が決まっていたので、荷物整理を叔父と一緒にした。
特に想い出深いのはおばあちゃんが大切にし、毎日お線香とご飯をお供えしていたお仏壇を叔父と二人で丁寧に解体した事。
二人手探りでマナーを守りながら壊しました。
何も話さず、黙々と。

叔父は兄ととても仲がよかった。
叔父は大のパチンコ好きでしたが、叔母があまり良い顔をしない(当然)ので控えていたようです。
しかし兄が一緒に行くときは何故か叔母もニコニコで「ふみとちゃんが一緒なら!」と送り出していました。
その時の嬉しそうな叔父の顔が忘れられない。
兄曰く「おじさんすぐ負けてた」*1

叔母と今回電話で話して昔と変わらず明るい声で「えりちゃん」と呼ばれると叔父と話しているような錯覚に陥り涙声になってしまいました。
叔母は気丈でいらしたけど内心10か月の看病疲れと夫を見送る混乱の中どう思っているのだろうかと心配になった。
落ち着いたころに小樽にお線香あげに行こうと思っている。

思い出すとちょっと笑ってしまう話もある。
母のお通夜の際、挨拶は兄がしたのですが、いわゆる乾杯の音頭は叔父が執ることになった。
通夜葬儀を担当した人に叔父が「なんて音頭をとったらいいのですか?」と聞くと「献杯(けんぱい)と言います」と言われて首をかしげる叔父。
北海道では少なくとも使わない言葉。
私も兄も首をかしげ「けんぱい?」と叔父の顔を見ると叔父も「けんぱい?」と何度も不安そうに呟く。
で、本番になり「それでは●●様、献杯の音頭をおねがいいたします。」と言われ、どう見てもためらっている様子のまま、「けんぱい!」と言った後、私と兄、叔父が吹き出してしまった。
通夜が終わった後も3人でずっと「献杯」について話をしました。
真面目な叔父が吹き出すから笑いが止まらず大変困った(汗)www

母が生きていた頃は度々親戚一同おばあちゃんの家に集まってはお酒を飲んで喧嘩していたけど、祖母が亡くなってからは疎遠になりつつあった。
私は東京でうつ病を抱えながら懸命に働いていたので、心に余裕もなくなっていた。
今思うともっと遊びに行けばよかった。
母について知らない事、まだまだたくさんある。
ゆりおばさんや残された叔母といっぱいお話したい。
度々帰るようにしようと思う。

2023/10/20 Eri

*1: