No one knows

猫と私とどこかの誰か

五木寛之という人生

表題は微妙ですが、12年前うつ病を患ってから救われたと思うまで五木寛之氏の本をたくさん読みました。

読んでいる間は私のような人間でも大丈夫だと思えるのです。
五木氏の多くの基は「親鸞」の教えを学んで得た想い、知識から成っています。
親鸞」は悪人ほど救われるという教えを説いています。

資料は『歎異抄』。

この1世紀で一番関心を持たれ研究された人であります。

内容は沢山本が出版されているので周知の事実として話を進めますと、自分の人生において起きた自らの罪の意識について、熟考し、後悔等せず、今のありのままを良しとすることが出来るようになったきっかけは、五木氏が分かりやすく親鸞を説いてくださったお陰なのです。

開き直るというのとはちょっと違うのですが、有名な「大河の一滴」的考え。
要するに宇宙規模で自分を考えた、何か大きなものの一部が自分という捉え方。
それによって、何も自分だけが特別苦しい訳ではなく、かといって要らない存在ではなくその一部が欠けるだけで何か大きなものに少しの変化を起こしてしまう。
そういう意識に切り替えて考えられるように努力をしています。

努力しないとできません。
他者が説いている書物を読んでいるときは安心です。
何故なら、大丈夫なんだと思えるという受身だからです。

でも本から手を離すと自立した思考を持たなければなりません。
飼い猫に対して、息子に対して、自転車に乗っているときのマナーに対して、買い物をするときのマナーに対して、仕事を進める上で、とにかく自分で考えなくては、判断しなくてはなりません。
そうでなければいけないと思えばたちまち、うつ病に逆戻りでしょう。
ですから、努力しているのです。

それと勉強を止めてはいけないと思います。
うつ病克服には勉強が一番有効です。
そんなことを言ってまだ罹患中ですけれども・・・(汗)

最近特に思います。
人は救われたいと心の底から渇望しているのだと。
自分が生きてきた世界を肯定したいのだと。
だから過去を振り返り前へ進もうと考えるのなら、偏った報道など無料で垂れ流されているものではなく、昔のように図書館にいったり、知りたいことの本を手にとって自分と世の中の整合性を保つ必要があるのかもしれません。

こんな風に文章に出来る今は比較的安定状態にあると思えます。
あれもこれも疑って嫌って生きていくことは無意味に感じられるようになりました。
努力するということを嫌う方に出会いますが、私は努力することでしか救われない類の人間です。
そういったことを五木寛之氏も本に書いていました。

今読んでいる本をご紹介します。
なかなか面白いです。

FACTFULNESS/著者ハンス・ロスリング・訳上杉 周作、関 美和

f:id:nobodyknows67:20190925221610j:plain

FACTFULNESS