No one knows

猫と私とどこかの誰か

もう

オフコースのうたで「もう、終わりだね~♪」ってありますよね。
それってどんな感じなんだろうって中学生の私は妄想していました。
夕暮れの12畳くらいの白い部屋で、オレンジに染まった窓を見ながら、そう告げられる女性。
男性はテーブル席に座り、目の焦点が合ってない感じで次の言葉を、雰囲気に合った言葉を探している。
そんなドラマの風景までは想像できたけど、実際の心の中までは全然理解できなかったな。

まだ何にも知らない若い時代には簡単に愛を誓ったりするものです。
この愛は永遠だという歌の歌詞にリアルを見ていたのかな?

私は若いころから人生は断片的で現実的に捉えていました。
自分からずっと好きでいることを宣言などしませんでしたし、未来に光を感じたことは、1985年に上京した春の3か月間くらいだったかもしれません。
1985年前と後で人生を区切ると理解できることがたくさんあります。
今日は前で綴ります。

まず、記憶が曖昧ですが、父親がいなかったため、友達のお父さんに、「お父さんって呼んでもいい?」と言ったのが6歳の時。
翌年には母が再婚して養子にしてもらった父が出来ました。
とても可愛がってくれました。
母もそれまでとは違って家にいるようになり、兄と4人家族結構幸せに6年間過ごしたと思います。

でも兄の自殺未遂で幕は下りました。
両親は離婚し、つなぎとめたかった私は父の傍に残りました。
血も繋がっていないのに。
ご想像通りDVありました。
たまらず、母の家へ逃げました。
それまで真剣に続けていたバレエに捻出するお金がないと告げられ、バレエ免除のある中高大一貫校の退学とバレエ自体も辞めました。
その時は母を猛烈に恨みました。
小さい頃からヒステリーの疾患があって、自分では知らなかったけれど、家族はみんな腫物に触るかのように私を育てました。
祖母だけは、「あんたは顔はブスだけど、やりたいことを持っているから大丈夫」といつも慰められていました。
中学から母の断片的なネグレクトに苦しみ、知らないおっさんが母の恋人(不倫)になり、ずかずか家に入ってきます。
「えりちゃん、今日はお洋服買いにいこうか」と言われ喜んで支度を整えた後電話が鳴り、「ごめん、お客さんが来て麻雀するから、今日はなしね」と舌の根も乾かないうちに予定を翻され、押し入れで大声で泣き叫びました。
普通2,3分で泣き止むのかな?こういう場合。
でも私は1時間力いっぱいお客に聞かせるように泣き叫んでやったのです。
それでも客も母も半荘を何度も知らんぷりで続けていました。
で、その時の大親友の家に家出をします。
家出中に風邪をひいて唸っているときに母が愛人と迎えに来ました。
小6の時もバレエの友達の家に1週間家出をしたことがあります。
中学の不良友達が夜中急に仲良くもないのに訪ねてきて(夜母は自分のスナックで働き始めていましたから不在でした)、「バイクに乗せてあげる」と私を誘い出し中型バイクの後ろに乗せてもらいました。
凄く気持ちがよかったのを覚えています。
ちょっと宙に浮いたような感じで凄いスピードを体に感じていました。
兄の原付に後ろに乗った時とは全然別ものでした。
中学を真面目に卒業した後、高校は祖母の家の近くにあった新設校を志望しました。
偏差値より少し下の学校。
落ちて私立に行く前提はなかったからです。
結局祖母の家から高校に通うことになりました。
今考えると祖母も私に対して責任を感じていたのでしょうか。
それまでと違ってとても厳しかった。
起床から寝るまで、祖母の監視は厳しかったのです。
物凄く嫌ではなかったのですが、なんたって花の16歳、自由が欲しくて、母の所へ戻りました。
戻らなければ良かったな。

ネグレクトですよ、完全に。
高校はお弁当でした。
バレエ中学の時も、祖母の所にいた時も、お弁当は必ず作ってくれていました。
母はお金をくれるだけです。
朝起きて母がいないと必ず麻雀荘にいるので、兄か私が電話します。
定期代は?お弁当は?
朝が来るのが嫌で仕方なかった。
電話の返事は「今日休みなさい」とか「雀荘に取りに来て」と無理難題ばかり。
それを回避するべくアルバイトを始めました。
1か月3万くらいにはなりましたので、何とかお昼代には困らなくなりました。
お弁当がなくお金もない時はカラのお弁当箱だけ持ってお昼になると「今日食欲ないや」ってお弁当を開きもしませんでした。
その嘘を見破ったのが、今だ親友のBさんです。
私の分も持ってきてくれるようになりました。
そして、上京する際、唯一私が居なくなることを悲しみ泣いてくれた友です。
あの涙を忘れることができません。
Bさんには東京から何度も電話しました。
ただただ泣き声を聞いてくれた日もありました。
2014年に札幌でライブをやった時、久しぶりに二人でお酒を飲みながらワイワイやりましたが、高校2年の時のまんまでした。
彼女だけはどんな時も私を信じてくれ背中を押してくれました。
彼女のお母さんも、私の味方になってくれました。
私の母に「あなたは娘さんを食い物にしている!」と怒鳴ってくれたのです。
それ以来母は、何も押し付けてこなくなりました。
それは確か、1992年にBさんが結婚式でハワイに行く空港でたまたま私と母、Bさんとお母さんがすれ違った時の話です。

 

この続きはまたいつか。